縄文の器 スケッチ帳-5
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(各「スケッチ帳」内のデータは 2002年から2009年に各地で得たものです。現在では地域名や施設名の変更・施設の移転や廃止の可能性もあります)
194 〜 242
194 弥生時代のかたちのよい壺。カードの表示に、「この土器は、縄文時代から弥生時代にかかる過渡期のものです。(遠賀川式土器)」とある。丸く広がる胴の上の平らな肩の上に少し開いた口が立つ。口縁部はゆったりと揺れる波のよう。
「深 鉢」・B.C.400~B.C.100年・桜町JOMONパーク出土品展示室・富山県小矢部市
195 なんのためだかおもしろいかたちをしている。姿も文様も左右対称で固い感じだが低い胴の様子には独特のものがある。まるで厚みのあるベルト様のものを巻き付けたように見える。それは彫り込んだ線が深いのと両脇に続く出っ張ったかたちのためだ。図ではわかりにくいが両脇の「耳」と称するものは前後から接したかたちでできている。そのあいだにできたへこみの上下には小さな穴が開けられている。細いひもか何かを通してみたくなる穴だ。この「耳」はただの飾りではなくて何かの用を足していたのだ。
「双耳壺」・B.C.2000~B.C.1000年・徳島県立埋蔵文化財総合センター・徳島県板野郡板野町
196 突起のあいだに伸び出る小突起。土器のこの部分に平面で表現された中の立体的な感覚を見る。出土部分が少ないのでいまはもうはっきりしないけれども、文様の各部分は擦消文として二種に分けられていたようだ。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・徳島県立埋蔵文化財総合センター・徳島県板野郡板野町
197 土器は全体には茫洋としたところがあるが柔らかい温和な感じを与える。この文様も面の部分を二種類に分けていたらしい。線は一定の幅と深さで克明に刻まれている。直線部分はあきらかにそのつもりで水平垂直に引かれている。入り組んで巻いたかたちに動きはない。この文様はすでになかば記号化された硬い図形に見える。これを伝えてきたもう少し前の人々の描いたものはどんなかたちだろうか。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・徳島県立埋蔵文化財総合センター・徳島県板野郡板野町
198 丸底のうえに段のある二つの土器。いま、この段差は透明な釣り糸を巻いて土器を固定するのにちょうどよい凹みとして展示のために使われている。実際には何のために使ったのだろうか。上の浅鉢は、底の丸味に似ず上に鋭く広くひらく。口縁部はほとんど水平だがほんのわずかだけ痕跡のように高さを違えてある(突起の一種?)。元々はもっと大きな差を付けていたのかもしれない。下の浅鉢も姿は大分ちがうけれども部分の造りは同じだ。
「浅 鉢」・B.C.1000~B.C.400年・徳島県立埋蔵文化財総合センター・徳島県板野郡板野町
199 土器のほとんどが完全に近く復元されている。ここのは、出土した部分の割合も多いようだ。補修部分の色まで似せているので出土部分と補修部分の区別がはっきりしないせいかもしれない。手前に伏せたように置いてあるのは大きな壺の一部だろうか。壁際に並んだ大きめの深鉢はすべて口縁部が平らである。たくさんの小さい土器は様々なかたちだが口縁部に突起や波形を持つものは少ない。
「」・B.C.1000~B.C.400年・徳島市立考古資料館・徳島県徳島市
200 これは、たくみに丸くかたちづくられた小さな容器。輪郭に余分なものはいっさいない。側面には木の葉状の文様が細い線で描かれていて、それは昔の図工の時間に描いたコンパス画に少し似ている。円弧を組み合わせた構成。中に生じたT字形は、もともとは三角の隙間だったのかもしれない。
「深鉢」・B.C.1000~B.C.400年・徳島市立考古資料館・徳島県徳島市
201 口縁に低い峰の連なる鉢。浅く尖る底は丸くまとめられて小さな高台がつく。側面から底を経る放物線は口縁の起伏に呼応する。簡素なかたちの中の洗練。このかたちを身近に置いた人たちは、この心地よさを味わう。
「深鉢?」・B.C.1000~B.C.400年・徳島市立考古資料館・徳島県徳島市
202 この開いた口に見せる線は何だろうか。これは、壺の中に入れた液体や細かい穀物などを傾けて流し出すのに効果があるのかもしれない。そういうことを考えた人もいたと思うとおもしろい。もしそうなら、口の広がりの余分なところを取り除こうとする人はいなかったのだろうか。いや、穀物などを入れるときには、こぼさないためにやっぱり必要なのか。
「壺」・B.C.400~B.C.100年・香川県埋蔵文化財センター・坂出市府中町
203 これは洗練されたかたちの弥生時代の器。首の上で口が広がって開き、胴のふくらんだ、この時代によく見る壺だ。その姿にこころよい線を大事にする繊細な感性を見る。
「壺」・B.C.400~B.C.100年・愛媛県歴史文化博物館・西予市宇和町
204 浅く開く四つの突起とその稜線が緊張感をはらむ。東北地方の器のように、突起はこの緊張感のままもっと高く伸びることはないのだろうか。正面の突起の下に特徴のある図形。これは各突起の下にそれぞれあるのかもしれない。
「深鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・愛媛県歴史文化博物館(平成13年度企画展示)・西予市宇和町
205 見るからに厚みがあって少し重そうだが実用的な器だったのだろう。広めの底、まるくふくらんだ胴、遠慮がちな突起などは実直そのものという感じだ。接合された縁に細かい欠きが多く、荒れた表面を見せる。後期の土器でも、文様はなかば記号化しているように見える。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・愛媛県歴史文化博物館(平成13年度企画展示)・西予市宇和町
206 この右上を目指す(あるいは右下に放たれる)激しい線はなんだろうか。上の口辺部には2本線が交差したものと2列の穴がある。これらはたがいにばらばらで、どこかが伸びたり入り込んだりしてつながる様子はまったくない。何かのシンボルを組み合わせたか、ただのいたずらがきか。右側からのぞくと、この場面ははもう1場面つづく。全体では3つか4つあるのかもしれない。
「鉢形土器」・B.C.1000~B.C.400年・愛媛県立歴史民俗資料館・松山市
207 それぞれ口辺部の1部だがその様子から見て別々の容器らしい。上の接合された土器片の場合、下にもう1つ大きめの土器片が接合されたら全体の姿を想うことができるかもしれない。下の2つの土器片は張り出しがトンネル状だが取っ手に使うほど大きくは出ていない。
「土器片(すり消縄文)」・B.C.2000~B.C.1000年・愛媛県立歴史民俗資料館・松山市
208 ほとんどの土器は、尖った底の部分に小さな平底が申し訳のようについている。これでは床に安全に立てておくというわけにはいかない。どの容器も口を大きく開いて、中身の出し入れがしやすいかたちだ。口縁部は平らで側面のひかえめな文様に謎めいて意味ありげなものは見られない。
「縄文土器の展示」・松山市考古館・松山市
209 胴に荒い線が入った土器。表面のこの処理は模様を付けたというより独特の粗い肌触り感を出そうとしているかのようだ。これとは対照的に上半分に凹凸はなく何かを刻んだり押しつけたりした様子もない。上下の境目ははっきりと区別される。このコーナーの展示ではこの土器だけが口辺に曲線を見せる。4つの峰が大きく波うつこの曲線は胴の輪郭線とよく調和する。
「深 鉢」・B.C.1000~B.C.400年・松山市考古館・松山市
210 たいへんすっきりとした輪郭線を見せる。目に見える限りでは、模様は2段に巻かれた刻み目のある帯だけだ。
深 鉢」・B.C.1000~B.C.400年・松山市考古館・松山市
211 同じ土器片を別の角度から眺めると器の形をある程度想像できる。このセンターでは、ここへ子どもたちが勉強に来ると、いつもこうして机の上に出して見せるのだという。これは深鉢の一部だろう。丸みのある胴につづいてやや広がる口辺。その内と外から引き出されたように輪が乗る。胴部の文様は擦り消し縄文で区別されているように見える。曲がりくねる線は深くはっきりと刻まれる。途切れた線の行き先をいろいろと想う。「土器片」・B.C.2000~B.C.1000年・本山町プラチナセンター・徳島県本山町
212 ややすぼめた口の縁は、細かく欠けているが上に向けて膨らませたかたちはよくまとまっている。側面の線で囲まれた素朴な文様は、ほぼ同じかたちで4回繰り返される。文様は互いに挨拶を交わす海底の生きもののようだ。この線を刻んだ男(女)は、代々伝えられたかたちをただまねただけなのか、それとも、この単純なかたちに込められた意味を知っていて何事かを思い感じながらへら先を進めていたのか、と思う。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・本山町プラチナセンター・徳島県本山町
213 内も外もなめらかな曲面を丹念にこしらえた六つの頂点のある浅い皿。これ似た皿は各地でよく見る。縄文の器の基本的なかたちの一つだ。こちらでよくある丸底は、器の置き場所と関係があるのかもしれない。平らな床や台の上に置くものならば底に高台のようなものをつけるだろう。たいていの場合にこの器は凹凸のある地面、数個の石の上、砂の上などに置かれたのか。
「浅 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・瀬戸内海歴史民俗資料館・香川県高松市
214 前面の一部しかないので、とぎれた文様の続きが見られずもどかしい。曲線の重なりは渦のようでもあり流れのようでもある。上の方の線は明らかに折り返して隣にかぶさる。このあたりでは珍しく躍動的な図柄が側面全体に続いているのかもしれない。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・瀬戸内海歴史民俗資料館・香川県高松市
215 器のかたちそのものは実用的な広口鍋といったところだ。この大きさなら、たとえば両手で持って他の器の上に傾けるなど想像される。文様は、側面を巻く細い帯からつぎつぎに出る蔓の巻きひげのような図柄が描かれていたようだ。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・瀬戸内海歴史民俗資料館・香川県高松市
216 これはやや大きめの深い器だ。腰の細くなるところまで入れてもかなりの容量だろう。少し反って開いた口辺には緩やかな峰が四つか五つある。このわずかな高まりはほとんど痕跡のようだ。かつてはもっと高い峰や張り出しが器の上を飾っていたのかもしれない。
「深 鉢」・B.C.2000~B.C.1000年・瀬戸内海歴史民俗資料館・香川県高松市
217 外形に見られるこの「二段重ね」は、四国でもたびたび目にしてきた。多くは下のの部分は球面だが上の部分は少し外へ反って開く。徳島で見たもの(198)は上が大きく開いて口辺には段差をつけたような凹凸もある。
「浅 鉢」・B.C.1000~B.C.400年・岡山市埋蔵文化財センター・岡山県岡山市
218 これは 202 の壺よりもさらに様式化されている。表面のラインはすべて細ひもを貼り付けたようにできている。開いた口辺の流し口は2本の線だ。もし、この程度の凹凸で効果があるとしたら、液体をほんの少しずつ細く流し出すときだっただろう。おそらく、このころの流し口は「そそぎ出す」というイメージを表していたにすぎないのだ。だから、実際には注ぎ口の位置を示すものだったのだと考えられる。
「壺」・B.C.400~B.C.100年・岡山市埋蔵文化財センター・岡山県岡山市
219 これは 202・218と続いたデザインの一つだが、すべてが端正に整えられている。弥生の壺では、首の根本を巻く帯がその姿を引き締めている。この帯や口辺の線は細かい突起をを並べて表す。ここには粘土に似合わない硬さがある。もはや実用の器ではなく、装飾となった流し口は何かをそそぎ込むときにじゃまになるだろう。
「壺」・B.C.100~A.C.100年・岡山市埋蔵文化財センター・岡山県岡山市
220 胴部にきれいに整った編み目を付け、上下に隆起線文を置く。一見、竹かごのようなものを連想させる。
わずかに盛り上がって斜めに交差する直線はひも状のものを貼り付けたものではないらしい。どの交点にもひもの重なりはない。地と盛り上がりの境目に隙間らしいものはない。これはやっぱり、あの「文様の原体」といわれるものを粘土の表面に押しつけたのかもしれない。もし竹かごをまねたデザインだったらこの方法ではなかっただろう。
「深鉢」・B.C.11000~B.C.7000年 ・(リンク)大和市つる舞の里歴史民俗資料館・神奈川県大和市
221 文様は側面全体に隙間なく刻まれる。上中下の三段に分けて構成は明快。中段のデザインはいくつかの模様の繰り返しだ。あいだに挟まれたものが2つであったり3つであったりする。このように精緻に刻まれているとそれも何か意味ありげに見える。器の下の部分もかなりの面積を細かく彫り込んでいるが失われた部分も多い。中段とはまたちがったかたちもみられる。やや開いた口縁部は欠ける部分が多い。器は豪華に装飾されて、しかも、きわめて実用的な形だ。
「深鉢」・B.C.3000~B.C.2000年・三殿台考古館・神奈川県横浜市
222 弥生の土器は、かたちも文様も単純で素っ気ないと思っていたし実際にほとんどそのとおりなんだけれども、ときどきその輪郭線にはっとさせられる。
「深鉢」・B.C.100~A.C.100年・三殿台考古館・神奈川県横浜市
223 口辺を巻く1本の帯は細かく波うつ。器全体に小片が散らばる。幸運にも口辺部のかけらがいくつか出たから帯の付けられていたことがわかったのだ。では、底が丸かったというのはどうしてわかるのだろうか。3つとも大きさは小ぶりで厚みは薄く華奢な器だ。すぐ壊れそうなのでたびたび持ち運ぶことはなかっただろう。 224 2本の帯上には小さな点が並んでいる。やなぎ葉状に垂れるもようがある。これらの容器は明らかに日常用だが、それでもすでに装飾を楽しんでいる。 225 3つのうちでは口辺部がもっとも多く残されている。下半分はほとんど出なかったらしい。上下2本の帯は縄のようにも見える。「ハ」の字型か筒の切り口状のかたちが点在する。
「深鉢」・B.C.10000~B.C.7000年・横浜市歴史博物館・神奈川県横浜市
226 口辺部では口縁がやや外に開く。これは口縁から側面中央までの小片が出土しているのでわかるのだ。そして、底で豊かに丸みを持たせた姿はなんとおおらかだろう。ただ、写真で見る限り底部に小片の影はない。
「深鉢」・B.C.10000~B.C.7000年・横浜市歴史博物館・神奈川県横浜市
227 V字型に開いてすっきりとした姿を見せる。この隙間だらけの材料でどうしてこの形がわかるのか不思議に思う。密に敷かれた隆起線文は何の役に立っているのだろうか。両手を当てたときの触感を楽しむ。また、そのすべりどめ。表面積を大きくして熱効率を高める。小枝の先を滑らせて音を出す。etc。……描いた輪郭線を見ていて、以前のほとんど同じものを思い出した(→ 136)見比べてみると小片の散らばり方に違いがあるが外形や隆起線文はよく似ている。
「深鉢」・B.C.10000~B.C.7000年・横浜市歴史博物館・神奈川県横浜市
228 華麗な装飾を内側に見せる鉢。こうして真上から明かりで照らすと、段差のある溝の影がいっそう濃くなる。こういう器は戸外で見下ろすこともたびたびあっただろう。口辺の2段目には、周囲に4つの小穴がほぼ等間隔にあいている。この小穴に細ひもか小枝を通して器を上からぶら下げたか。この器は食物の煮炊きには向かない。なにを盛るのだろう。木の実。穀類。森の果物。野の花。
「浅鉢」・B.C ~B.C. 年・横浜市歴史博物館・神奈川県横浜市
229 このデザインの特徴は器の上部で巨大な空間を占有するところにある。それは各頂点を構成する線やふくらみが醸し出す包み込むような動きにによって感じさせられる。あの東北の器の持つ空間と同じものだ。しかし、これは「大歳山(おおとしやま)式」と呼ばれる関西方面の土器で、当時交易等により鶴見川流域にもたらされたものなのだという。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・横浜市歴史博物館・神奈川県横浜市
230 どのような感性がこのラインを作り出すのか。豊かな量感のある胴、首で細めてから上に開く口。液体を入れた革袋のイメージ。
「壷」・B.C. ~B.C. 年・横浜市歴史博物館・神奈川県横浜市
231 口辺に回廊を設けた土器。上の渦巻きを支えるように逆V字の柱が並ぶ。何がここを通り巡るのだろうか。それは、渦巻く流れに誘われるように自由気ままに出入りしているかのようだ。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・山形県立博物館・山形県山形市
232 首から上が失われている。もぎ取られたような折れ口をしていて、首はある程度の高さがあったように思われる。胴の上下を絞ったかたちからもそんな気がする。硬く引き締まった胴には、思い切り大きく図柄を描いている。図柄は二つの寝かせたS字型を順に描いていって、この図の右側後方付近(D)で左右から出会って重なっている。ここで描線がぶつかりそうになったとき、ここだけ図柄を縮めたり、最初からやり直したりはしなかったのだ。
「壷形土器」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
233 これは、汁物を頻繁にすくい上げたりするには便利なかたちだ。文様はタマネギを縦切りにしたような図柄。この図柄にはいろいろなバリエーションがあって、鱗茎が開いたのや、左右に一片ずつのものなどを描いた土器もある。今、われわれには草花の側面を描いたようにも見える。彼らは具象物をあまり描かないようだから、実際には左右対称の性質を持った何かの想念を描き出したということらしい。側面上部に失われた部分が多いので分かりにくいが全体の文様構成ははっきりしている。鱗茎状の図柄はかならず水平線上に置かれる。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
234 上部に楕円形の囲みが並ぶ。その枠外をたくさんの細かい点を配した面で区別している。このように特徴のある地肌を作ることで面と面を区別し互いを際だたせる。これが絵の具で彩色する代わりになっているようだ。この場合は、いわば華麗なヒョウ文色というところ。このとき彼(彼女)はこの「色彩」をここに使いたかったのだ。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
235 ここですぐ目につくのは平らな口縁部である。ふつうは器の状態としてごく当たり前なのだが縄文土器に限ってこれは異例なのだ。この姿は口縁部のさまざまな突起を見慣れた目に何か異様な単純さと映る。水平にカットされた口縁をわざわざ避けるという1万年もの長いあいだ続いた根強い嗜好については、見る者にその由来について限りない興味を抱かせる。これは、その気持ちを裏切るように見事に平らなのだ。口縁部以外でも直線に近い輪郭線や四角を組み合わせた図柄などを見ると、作り手がもともと単純なかたちを好んだ結果とも考えられる。その場合に、あの「根強い嗜好」は彼(彼女)の心の中でどうなったのだろう。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
236 単純化された波、あるいは何かをつなぎ続けるイメージ。文様の構成はきわめて明解。文様の上下は水平に仕切られて何も描かれない。その余白の比率は気持ちよく眺めることができる。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
237 口辺部に七つの低い峰が連なり、図柄はその下に一つずつくりかえされる。文様は簡素で静かな表情だがこれでも動きがある。横にずらした平行四辺形の左右へ連続する動きだ。それには側面上部のわずかなふくらみが線に与える効果もあって、作り手はおそらく無意識にそれを利用しているのだろう。対角に添えたちいさな渦はその動きにあまり役立っていない。この図柄を使い始めた頃は対角線上より少し内側にずれていて、卍形に似た動きを平行四辺形に与えていたのかもしれない。ここでは、ただ文様に変化を与える遊びのように見える。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
238 文様がこのように整理される前は曲線のS字型や渦巻きなどを使っていたのかもしれない。これは、それらが何度も繰りかえされるうちにしだいに変化したものかと考えたりする。もしそうなら、その傾向はたいへんおもしろく、その途中のものを是非見つけたいものだと思う。口辺に五つの峰ができていて図柄の内部はその峰の位置に呼応している。この峰はすでに上に伸び上がろうとする気配を感じさせる。それはそれぞれの峰の上部の高まり方や峰の開く角度によるものと思う。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
239 この口辺部は大部分が欠けて出土したようだが図の左後方には出土部分がある。石膏で補った壺の口縁部はほぼ水平に整えられている。細部などはともかくこの姿だけ見るとまるで弥生土器のようだ。胴部は地肌のちがう太い幅の折れ線模様が側面を覆い尽くす。大胆な表現だ。この表現は、慣習として何度も繰りかえされた結果の一つかもしれないし、それゆえ、この表現を壺の作り手個人の感性に結びつけるのは無理かもしれない。それはともかく、これはとてもモダーンなデザインだ。
「壷形土器」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
240 円弧を使った装飾。小学生の頃、コンパスを使ってこんな図案を描いたことがある。下向きの円弧はしなやかな紐状のものが両端から垂れ下がったイメージ。彼らはこのような場面を日頃からごくふつうに眼にしていたのだと思う。そしてそれをここに写し取った、とするのはやや無理だろうか。一定の幅の布を垂らして両端をたくし上げても同じかたちができる。一時的にこんなふうに軒を飾ったり、部屋を区切ったりすることは今でもよく行われている。この器では隣り合う円弧の境にも同じ円弧をのぞかせる。これを上下対称にし、さらに円弧をつり下げた図案が側面を巡る。これとほぼ同じ図案は歴史時代に入って以来のデザインに何度も現れる。
「浅鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
241 かくも過度な装飾。われわれにはどうしてもやり過ぎとしか見えないこの突起の役割は何だろうか。もともと、この器の本体は容積が小さく実用に向かない。祭祀など幾分かは精神的な活動を高め補う道具だったらしい。そうすると、この突起はその重要な部分を表しているのだろう。突起の複雑なかたちはほぼ螺旋状で、細部では例によって紐状に、また、峰状に巡り上るものがある。
「深鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市
242 この器の中の図柄はちょっと見ると花模様のようだし、側面に並んだ図柄も地面に生えた植物のようだ。器の底でそれぞれ二枚向き合って立った花弁状の右側ではその根本で向きを変えて下の段に続いていくように見える。左側でそういうことはない。つくり手は大体の姿を左右対称にするが、描くべき何かのイメージの本来のかたちは残そうとうするのか。このことは四つのすべてに当てはまるように見える。四つの「花」はそれぞれ中央の渦巻きの線上に置かれている。この全体はすでに点対称に構成した花柄のようににまとめられているが、もともとは各部分がもっと気ままに伸びて、くねり回って、流れたり合わさったりしていたのかもしれない。
「浅鉢」・B.C. ~B.C. 年・大湯ストーンサークル館・秋田県鹿角市