縄文の器 スケッチ帳-3
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(各「スケッチ帳」内のデータは 2002年から2009年に各地で得たものです。現在では地域名や施設名の変更・施設の移転や廃止の可能性もあります)
097 〜 144
097 ほとんど文様の描かれない壺。…。首を飾るひもや口辺のわずかなそり、内側にわざわざ刻んだ溝は明らかに縄文のデザインだ。器形の整った単純さとともに、意に添わない凹凸を決して許さない肌や輪郭線には驚く。これも、縄文の行き着く先の一つだったのか。棚には「この仲間」のいくつかが並ぶ〈図→〉。なかには浅く付けられた縄文や波線がわずかに浮かぶものもある。その控えめな表現は器の肌や輪郭線の緊張感が崩れることをおそれているようにも見える。おそらくこの激しい表情がやはり文様は少ないが常におだやかな表情の弥生土器との大きな違いなのだ。
「壺形土器」 ・ B.C1000~200年 ・ 大船渡市立博物館 ・ 岩手県大船渡市
098 口の縁まわりで細工がおもしろい土器。これは何かの模様が圧縮されているのだろうか。この狭い幅の中で、わずかだが確実にうねり、巻き、流れる。どうでもこうでなければならないとでもいうように。互いに重なったり、下から流れ出したりする様子はいかにも縄文の意匠だ。
「深鉢」 ・ B.C3000~2000年 ・ 山形県立博物館 ・ 山形県山形市
099 こちらは、巻いた筒のようなのを上に4つ乗せている。口のまわりを飾る模様は細部までくっきりと浮かび上がって精巧なものだ。だいたい同じかたちが4回繰り返される。筒と筒の間にも渦巻きが一つ描かれ両側から伸びる蔓でつながる。この中間に置かれた渦巻きからもう1本の蔓の芽が出て右側の筒に向かう。これは粘りけのある液体から伸び出るように描かれる。こうして隣り合う図形が連なっていく。構成要素ははっきりしていて曖昧な部分はない。
「深鉢」 ・ B.C3000~2000年 ・ 山形県立博物館 ・ 山形県山形市
100 かつての華麗な装飾を偲ばせる土器。この土器もひび割れが無数に走る。出土後の接合作業は大変だっただろう。筒状の上部から胴にかけて描かれる模様は豪華な襟飾りのように見える。首のすぐ下に置かれた帯はわずかに厚みを見せて上下を隔てる。上と下の手の込んだ模様のあいだに無地の面を置く。この思いつきはこころにくいほど効果的だ。弧に囲まれた大きな面にも、いまは無惨にひび割れの溝を刻むが元々は何も描かれていない。このおだやかな曲面はそのために胴のやわらかいふくらみをいっそう感じさせる。胴の下半分は表面が荒れていてわかりにくいが弧の模様が線対称として描かれているのかもしれない。
「壺」 ・ B.C2000~1000年 ・ 山形県立博物館 ・ 山形県山形市
101 足元へ胴を細めて立つ土器。口辺部の突起は、図では一つ隠れているが全部で四つある。突起の間に垂れる弧は胴の側面を描く曲線に調和する。突起を含む上の部分のかたちは、大きく誇張されたものをこれまでもしばしば見てきたが、ここでは小さく控えめにまとめて全体との平衡を得ている。側面の文様はおそらく4回繰り返される。描線はよく整理されて優雅に器を包む。
「深鉢」 ・ B.C3000~2000年 ・ 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館 ・ 山形県高畠町
102 口辺部を外へ張り出す鉢。この口辺部を両手でつかんだのだろうか。文様で飾っているのは口辺部だけらしい。これだけの面積のなかで、四つの穴を開け、線を流し、渦巻きを描いている。
「深鉢」 ・ B.C3000~2000年 ・ 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館 ・ 山形県高畠町
103 縄文には少ない単純化された外形。付け加えた余分な突起も流れる線も渦巻きもない。口辺は胴の上でやや広がって立つ。その周囲にごく浅く描かれた模様をかすかに見ることができる。作り手にとってここは重要な部分であったらしい。全体の姿は頭でっかちだが、下の方をこれ以上ふくらませても あまりよいかたちにはなりそうにない。この土器の下の方はどこが出土部分なのかよく分からない。
「深鉢」 ・ B.C4000~3000年 ・ 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館 ・ 山形県高畠町
104 弥生時代前期と表示された土器。底の部分には白い小さな物が挟んである。底は、欠けたのかこれが元々の形なのか平らではないらしい。もしこのままなら、平面に置いて使うことはできない。口辺の突起は同じ厚みで切り取られたように立つ。縄文の流動感は消えている。
「鉢形土器」 ・ A.C.0~B.C.300年 ・ 山王ろまん館 ・ 宮城県栗原郡一迫町
105 少し堅い感じはするがすべてに十分な注意が払われた丁寧な造りだ。各部分の特徴もはっきりしている。側面の波模様は水平と斜めの線が強調されてZ字形の繰り返しのようでもある。しかし、実際にたどってみると正しい繰り返しではない。その上で巻かれている輪はいかにもこのころの縄文らしさがある。この、横に連なる棒の両端を丸くふくらませる形に何を感じていたのだろう。ここから丸みのある斜面で容器の口を内側にすぼめる。上に立つ低い峰の輪はやや外に反る。峰は細かくえぐり取ったように細工される。これらの3つの輪から引き出されるように立ち上がるひときわ高い突起は、他の控えめに押さえられた表現のなかでやはり異様だ。下から見上げると男性器を連想する。だが、横や上から見ると決してそれではない。普段は高いところに置いてあったのかもしれない。この器の底には座りの良さそうな台が付いていて、長期間にわたって平面に置かれたもののようだ。
「台付鉢形土器」 ・ 約B.C.500年 ・ 山王ろまん館 ・ 宮城県栗原郡一迫町
106 ここでも、作り手はかたちの完璧さを徹底して求めている。彼にとって不要な凹凸を残さないことは非常に大事なことだったのだ。そこでいまここに、厳しい輪郭線と均一な表面の肌がある。文様の波線は比較的なめらかに流れる。いつものように同じかたちや組み合わせを探してみるが、よくわからない。似ているようでも違うところもある。この曖昧さは器の完全なかたちから見ても不思議だ。何か理由があるに違いない。もう一つの不思議は口辺にある。口辺には一つだけ出っ張りがある。この突起は全体の大きさから見て極端に控えめだ。こんなにわずかな出っ張りでもどうしてもここに必要であるらしい。同じく痕跡のように見せているのは、口辺の外を取り巻く溝の凹凸。この凹凸は必要なところに必要なだけあるのだ。突起も溝も決してなめらかにしてはならない。
「壺形土器」 ・ 約B.C.500年 ・ 山王ろまん館 ・ 宮城県栗原郡一迫町
107 この寸詰まりの花瓶のようなものでも壺と呼ぶ。口辺が少し内側を向いた浅い筒で輪郭線としては素っ気ない。口辺のすぐ下から胴全体に展開する文様は重厚な表情。こんな側面の文様はほかにもあるのだろうか。側面のすべてを文様で覆うということは縄文ではよくあることだ。それが晩期にもあったのだ。だが、これは晩期以前によくある、面を区画したり線を張り巡らせたりしてすべてを埋め尽くすというのとは違う。これは側面に大きく広げられた構築物とでもいおうか。容器の反対側でどうなっているかはわからない。幾重にも重なったひも状の線は順にたどることができるのか。この前面では2本の斜めの道が両側をつないでいる。上の方では道の途中に不規則にへこみがあって、それも構成上の何かを表しているのだろう。この文様の表現に長い時間をかけて取り組んだ人物は、これらの仕組みが何だったのか少しは知っていたにちがいない。
「壺形土器」 ・ 約B.C.400年 ・ 山王ろまん館 ・ 宮城県栗原郡一迫町
108 これは弥生土器。山王Ⅲ層式高坏形土器と表示される。杯の輪郭はおだやかなふくらみを腰のくびれでやわらかく絞って台に続く。口辺の波がそれに調和する。側面で幾層にも刻まれた線はゆるく波うってときにはかさなる。西日本のかたく無表情な弥生土器とはたいそうちがう。
「高坏形土器」 ・ 約A.C.0年 ・ 山王ろまん館 ・ 宮城県栗原郡一迫町
109 線で囲んだ中には縄文を付けて他と区別している。この部分が主となるかたちで、そこ以外は隙間なのだろうか。縄文の部分を追っていっても似た図形のくりかえしとか特別意味のありそうなかたちが浮かび上がるわけではない。しばらく見ていると、縄文の部分はただだらだらと続いていて、むしろ、隙間の方がまとまった形に見えてくる。描き手は、ここで、ただ線のうねりを楽しんでいたのだろうか。(図を180度回転させて見る〈図〉。)
「浅鉢形土器」 ・ 約B.C.500年 ・ 山王ろまん館 ・ 宮城県栗原郡一迫町
110 これは、まるで投げ入れの花瓶のようだ。彼らはこれを何に使ったのだろう。文様の配置に規則性はほとんどない。ほぼ大きさのそろった渦巻きは右巻き左巻きともにある。それらは垂直に立った茎様のものや弧を描く蔓様のものから伸び出て、明らかに植物を連想させる。観る者は、その線の流れをただ見ているだけではなく指先で触れてたどってみたくなる。彫りの深い表現はあくまで自由で大胆、率直で明快だ。
「深鉢形土器」 ・ 約B.C.2500年 ・ 七ヶ浜町歴史資料館 ・ 宮城県宮城郡七ヶ浜町
111 なぜかこの容器は粘土の厚みをあまり感じさせない。かたちをつくる面が特に乱れることもなく安定しているためか、あるいは表面に浮き出る細いひものせいか。ひもは、容器の表面や突起のあたりを少し遠慮がちに、しかし、いかにも縄文らしい表情でめぐり這う。やや無様に見える注ぎ口は短いが容器の上まで出ていて、このかたちなら液体を保ち注ぐという本来の用を足すことができる。この仲間としてはまだまともな容器だ。土瓶のように取っ手を付けるとしたらちょうどよい二箇所に穴がある。ほとんどそれ以外には考えられない穴だ。
「注口土器」 ・ 約B.C.2500年 ・ 七ヶ浜町歴史資料館 ・ 宮城県宮城郡七ヶ浜町
112 この土器は補修された部分が多いけれども、かたちも装飾も華やかなものだ。ふくらんだ側面にはたくさんの渦巻きが広がり、上に伸びたものは波形にひらいた口辺間際にまで達している。模様の構成にあたっては、この容器のかたちをできる限り利用したのだ。もしかすると、この模様を十分豊かに描くためにこの容器のかたちを選んだのかもしれない。また、線の流れ方や分岐のしかた、幅の変化などには型にはまらない独自の雰囲気がある。これを曖昧な行き当たりばったりの所作と見てはならないと思う。
「深鉢形土器」 ・ 約B.C.2000年 ・ 七ヶ浜町歴史資料館 ・ 宮城県宮城郡七ヶ浜町
113 これは繰り返し文様を刻んだ晩期の深鉢。模様は、互いに引っかけ合うかたちで横に続いていく。おそらく、もともと複雑に曲がりくねった雲形だったものが極端に簡単なかたちへと変化したのだ。このためにどんな経過があったのだろうか。単純化も、縄文土器の絶えず見られる特徴のようだ。
「深鉢形土器」 ・ 約B.C.500年 ・ 七ヶ浜町歴史資料館 ・ 宮城県宮城郡七ヶ浜町
114 この土器は出土した部分がほとんど口辺部のみだったらしい。突部の表面は徐々にすり減ったように見える。人が持ち運ぶことが多くていつも何かにこすられていたか、長く水の流れの中にあったか、いつまでも砂粒の吹き付ける空間に露出していたか。それでも細い溝が至る所うねり回る。巻いた円が穴を見せ、隣へ通るトンネルをつくる。平面らしいものや規則的な繰り返しはどこにもない。外縁から浮かび上がった立体が自由気ままに行き交うのだ。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長井市古代の丘資料館 ・ 山形県長井市
115 側面を見ると「そろばん玉」のように鋭い直線を見せる鉢。そろばん玉とちがうところは下が上よりも深いところだ。上の斜面には文様がくっきりと見える。まわりを4区画に仕切ったらしく、その中に記号めいた図が描かれる。どの区画の図も一部失われていて全体を見せていないが、図は区画ごとに違うもののようだ。それぞれ四つの具体的な物とか場面とかを簡略に描いたのだろうか。ここでも、線はどこまでもつながってかたちを描いていく。
「鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長井市古代の丘資料館 ・ 山形県長井市
116 胴の下でゆるく絞った鉢。文様は二つのかたちで表される。高く上り下りしながら胴をめぐる線が描くかたちと、その間に置かれたかたち。面は縄文によって区別されるが、すべてが閉じて独立した面というわけでもない。そこは、曲がる線に囲まれたので面がなんとなく浮かび上がったという風だ。外形や文様に鋭さはなく、すべてはゆるやかに流れおだやかに包み込まれる。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長井市古代の丘資料館 ・ 山形県長井市
117 波線を境に側面の上下を使い分け、大まかなU字形を波の間に配する。U字形には中に点のあるものや斜めに傾いたものなどの変化がある。ここには二本の同じ幅の線が目に付く。U字形をつくる二本線、U字形と波のつくる二本線。まるで極端に狭い幅をさけているように幅をそろえている。こうした簡潔な文様を見ると、何か複雑な想いを表そうとしているよりも容器を飾る意図の方が勝っているように思われる。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長井市古代の丘資料館 ・ 山形県長井市
118 表現自体は大まかな中に独特の風格を持った土器。手首を合わせた両掌を上に開いて受けるような外形、波打つ口辺、向かい合う文様のかたち。すべてがおおらかである。ここではすべての曲線が何の迷いもなく調和する。
「浅鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長井市古代の丘資料館 ・ 山形県長井市
119 太い線が踊り回るような二つの土器。文様の線は同じだが構成はまるで違う。向かって左の土器は補修部分が多くて線の流れは想像を働かせるしかない。線の流れをなんとかたどってみる。これは、容器の側面いっぱいに大きく広がっているものなのかもしれない。それに比べて右の土器の文様は分かりやすい。右下から巻き込んだ太い線が先端を丸くして止められる。似たかたちが枝分かれしたり短いつなぎを介したりして連なっていく。連続模様ならば、裏側にも何個描かれているか見当を付けさえすればよい。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長井市古代の丘資料館 ・ 山形県長井市
120 上部の空間を包み込むような高坏形深鉢。容器の表面は鎖状につながった細かい模様で覆われる。これは細竹のような管を縦に半分に割って、その切り口を粘土の表面に小刻みに押し付けたもののようだ。細かい半円の連続でできた線は思いがけず立体的で、じっさいに盛りあがった線のように見える。 技法は単純だが効果は絶大だ。細密なラインが容器の全面を豪華に彩る。
「深鉢形土器」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 山梨県立考古博物館 ・ 山梨県甲府市
121 鉢は胴の下の方がややふくらんでいて、帯のような横の線が胴を軽く締めている。やがて口は思い切り広がって四つの先端を鋭くのばす。器の表面は細やかな装飾で満たされる。これらのせいか、容器は華やいでしかもゆったりとした姿を見せる。何重もの円が表面にいくつも配置されていて、それがすべてこの細かい押し型で丹念に刻まれている。特に規則的に並べたわけではないが、この文様はある角度で見ると胴のふくらみをより豊かに装う。この円は中心からたどっていくと実は渦巻きで、巻いた線は隣の図形に重なったりしてたいていは途切れてしまう。
「深鉢形土器」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 山梨県立考古博物館 ・ 山梨県甲府市
122 口辺に四つの突起をもつ鉢(注口土器)。どの突起もトンネル状になっていて口辺をとりまく斜面は通路を思わせる。向かい合った二つは対になり、通路の上で八の字を描くものと面を巻いてトンネルを作るものとに分かれる。このうち1つが注ぎ口らしい。それぞれの突起は巧妙に口辺の斜面に続いている。ここでも流れる線と面が立体的にデザインされていく。
この、どうしても線をたどり面をなぞりたくなるデザインは、長い時間をかけて伝えられた形式の一つなのかもしれない。またそれは心の奥から自ずからわき出る衝動のようにも思われる。造形につながるこの想念は長い時間にわたって多くの人々が共有してきたものらしい。
「注口土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 山梨県立考古博物館 ・ 山梨県甲府市
123 図形の配置に迷いはなく単純明快、よく均整のとれた姿だ。このころ、定型として広く行われていたものなのだろう。規則的に並ぶ曲線の効果をよく心得て難なく配置している。容器の大きさとともに見事な図形ではあるけれども深く思いを寄せるような心の忍び入る隙がない。側面で曲線の列のおわりが起きあがっているところはいかにも縄文的。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 山梨県立考古博物館 ・ 山梨県甲府市
124 あたまでっかちで文様の少ない奇妙なかたちの容器。持ち上げられた上部はなにか大事なものを両側から包み込んでいるよう。頂点の背面に植えられた一本の線はその伸び上がる方向を強める。帯は上下を区別するくびれ目に巻かれる。これなど、本当は少し下にずらした方が作業がしやすいのだろうけれども。下部の表現はいかにも丈夫そうだ。このデザインは、ただ文様を控えめにしたのではなく強調したいところを厳しく選んでいる。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 山梨県立考古博物館 ・ 山梨県甲府市
125 向かって右側と前面の一部が欠けている。ほぼ左右対称の器形を想像する。人の顔だということは、二つの深い小穴で表す目と額からかすかな稜線で盛り上がる鼻でそれとわかる。心憎いほどの省略。顔の下は板状に処理されて両方の口辺に広がる。左手には蛇ふうのものが置かれる。右手に何があったのか知りたい。完全な左右対称をさけて別のものだったかもしれない。全体は見事に構成的で、細部の作りは精巧だ。すでに実用から離れたもののようにも思われる。
「深鉢形土器」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 山梨県立考古博物館 ・ 山梨県甲府市
126 これは器ではなく土偶だが、器をつくる際と同質の感覚を見せている。頭部の処理はやや奇異な感じがするが、肩から下半身にかけてのすべてはいつ見てもかたちがいいと思う。このかたちには、どの角度から見ても思いがけない処理がされている。何カ所か、大胆にカットして作り出した面がある。わずかな曲面が必要で十分な量感を出す。むだなくひきしまってたちあがる胴。腰骨の上に施される装飾。横線を密に刻んで特殊化した面。えぐりとられた空間。そうして、これらのすべてがなんの無理もなく流れる線や面でかたちづくられている。この図のちょうど反対側、斜め後ろから見た姿もすばらしい。
「土偶(複製)」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 国立歴史民俗博物館 ・ 千葉県佐倉市
127 口辺ぎわに小穴の並んだ草創期の鉢。すでにこの早い時期に、入れものとして何かの工夫をしたのだ。表面に文様らしいものは見えない。薄手で底はほぼ平たい。穴の間隔は不揃いだ。器がまだやわらかいうちに小穴をたくさん開けることはそれほど難しいことではないだろうが、何のためだろう。口辺近くではやや外に反る。向こう側から紐か枝をわたすか、口を覆うものを止めるか。
「深鉢(複製)」 ・ B.C.10000~B.C.7000年 ・ 国立歴史民俗博物館 ・ 千葉県佐倉市
128 ここには器で展開される造りと同じものがある。透かしは、粘土がかたまりかけたところで鋭利なヘラで隙間を削り取ったのだろう。あらわしたかたちに具体物を連想させるものはない。曲面や曲線の流れがさまざまに入り組んだ、どこまでも立体的な造形遊びのよう。
「土製耳飾り(複製)」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 国立歴史民俗博物館 ・ 千葉県佐倉市
129 写実的な背中を見せる座像。縄文土器では、ときどき加えられる具体物もそれと決められないような簡略なかたちが多いがたまに思いがけない表現にであう。これは土偶だが両肩から背なかにかけて見せる姿は人体そのままだ。腰を下ろしてつよく丸めた背中には背骨が張り出している。ふつうは、ここまで描写することはあまりない。首の部分に頭がとれてしまったらしいあとがある。前から見ると、ひざのうえで両手を組んだ姿勢に見える。人体の構造上からは無理なかたちでも不思議な実感が伝わる。
「土偶(複製)」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 国立歴史民俗博物館 ・ 千葉県佐倉市
130 二段のひだの中のこの線と小さな円は何だろう。生活の中の何事かを暗示しているのか、記念しているのか、それとも数千年前の人々の粘土面を借りた遊びか。
「深 鉢」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 房総のむら風土記の丘資料館 ・ 千葉県印旛郡栄町
131 側面には荒々しく並ぶ直線が深く刻まれる。四つの頂点を鋭く広げるかたちがここにもある。このかたちは広い範囲で繰り返し行われたもののようだ。勢いを込めて空に広がろうとする感覚。見方によっては、高いところから降りてくるものをなんとかして受け取りたいような。このかたちは、ただ純粋に感覚的な産物だ。目指す対象がはっきりしていて、そのための暗示や記念のためであればもう少し具体的なしるしになるはずだ。ここには、方向性のあるなめらかな線と面を見つめつづける視線だけがある。これは、ものごとをただ立体的に空間的に感じ取る感性から生まれた根強い形式の一つのように思われる。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 房総のむら風土記の丘資料館 ・ 千葉県印旛郡栄町
132 浅い胴はまるみをもって全体を柔らかい姿に見せる。
「浅 鉢」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 房総のむら風土記の丘資料館 ・ 千葉県印旛郡栄町
133 優雅な曲線が繰り返される晩期の深鉢。まるで「波がしら」のデザイン。
「深 鉢」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 房総のむら風土記の丘資料館 ・ 千葉県印旛郡栄町
134 図柄は晩期の土器にもよくありそうなものだ。ここでは、作り手はかなり細かいところまで左右対称を目指している。それでも、幾何模様のように機械的ではない。親近感という点では、容器は使いみちから土偶は人のようなかたちから近づいていくことができるが、土版にはそういうことがなさそうだ。そういう点では「余分なものを含まない遺物」かもしれない。
「土 版」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
135 きわめて実用的なかたちだ。実用性をどこまでも求めていけば波の文様はいらないだろう。けれども、彼らにはこの飾りが必要だった。波線の下に二組ずつ並ぶ出っ張りは、模様か、記号か。
「深 鉢」 ・ B.C.10000~B.C.7000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
136 出土したと思われる部分を際立たせて描くとこうなる。こうして横線を密に刻んだ土器は、青森の博物館で見た。あれは複製でその出土部分についてはわからなかったけれども、本物はやっぱりこんなふうに隙間だらけに散らばっていたのだろうか。かつて、どんなふうに作られ、どんなふうに使われたかを思うと遠い昔だけにいっそう興味をかき立てられる。
「深 鉢」 ・ B.C.10000~B.C.7000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
137 外国のどこかなら動物の角のカップに似ているといわれるかもしれない。口辺は、わずかにゆるやかに高まる四つの頂点を持つ。側面の横線は何となく適当に引かれたように見えるが、中には斜めに交差した部分が二段あるようにも見える。底に向かって異常なまでにとがらせているのは地面に立てるための実際的な必要から生じたものらしい。
「深 鉢」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
138 簡素で、しかも見事なかたち。普通の円筒ではなく上に向かってほんのすこし狭めているなどは、たまたまそうなってしまっただけなのだろうか。上下の枠のような部分や側面の文様の付け方などを見ると、上手にできた竹細工製品をまねたようにも思われる。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
139 この二本線は、竹などの管を半分に割って端にできる半円を利用して描くのだという。斜めに上下する直線と曲がり込む曲線。この線は乱暴に書き散らしたように見えるけれども一応の予定はあったようだ。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
140 繊細華麗な深鉢。側面の模様は細やかな織物にときどき見られるように華やいでいる。口辺には上をU字型に開いた注ぎ口がある。注ぎ口の両脇に突起が立っているがこれは側面の続きとして厚みを変えないで上に出ているだけのものだ。この表現が側面上部の模様とともに立体の雰囲気を決めている。作り手は、この雰囲気を壊すような余分なことをいっさいしていない。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
141 これは珍しく単純な姿の深鉢。口辺に数条の線が目立つ程度だがよく見ると側面に縦に垂れる文様がある。同じ形が連続して押しつけられているようだから、かたちを彫りつけた小枝を上から下へ何度も転がしたのだろう。極度に抑制されたかたちと文様。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
142 カーテンを両脇に開いたような文様の深鉢。この部分を軸にして全体はほぼ左右対称だが、細部まで対称性を維持する気はないようだ。構図としては左右対称による安定感を求め、その中にいろいろなかたちを気ままに配置している。口辺には突起が一つ立つ。反対側にもう一つ立てられた様子はない。小さな渦巻きが線の終端などにできている。分けられたカーテンを主役にしてなかなかにぎやかな内容だ。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
143 一面に線が這いまわる壺形土器。これと同じような文様を秋田県大湯の展示館でたくさん見た。大湯では土器棺にも見られる文様だった。文様の基本となる要素は一定の幅の二本線だ。この二本線は短く独立していたり、先端を丸めて終わったりしているからあまり迷わずたどることができる<図>。何を表しているかは知るよしもないが、少なくともこの線の流れがわれわれに与える不思議な感覚は味わうことができる。このわれわれにはとらえどころのない感覚は当時生きて生活していた彼らとどのくらい同じものなのだろうか。
「深 鉢」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区
144 底が丸い。これと同じスタイルの鉢はたいてい裏向きに立てかけている。この雲形文様を見せるためだが、してみると表には何も文様はないのだろう。当時の人々は、ふつうはこんな風にして見ることはあまりなかったと思う。この文様は二つの要素からできているように思う。一つは、ある程度の幅を持って延びていく線。この鉢では横方向に引き延ばされている。他の線と合流したり分かれたりして囲まれた三角をつくったりする。線はできる限り無理なくなめらかに引かれる。もう一つは、線の終端につくられる丸めた部分だ。この丸い部分があることでわれわれにはこの文様が雲形に見える。これがないときには、文様は渦巻く川の流れのように見えるだろう。
「深 鉢」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 東京国立博物館 ・ 東京都台東区