縄文の器 スケッチ帳-4
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(各「スケッチ帳」内のデータは 2002年から2009年に各地で得たものです。現在では地域名や施設名の変更・施設の移転や廃止の可能性もあります)
145 〜 193
145 大きな深鉢の上部だけを復元したもの。「高山寺式土器 和歌山県田辺市高山寺貝塚から出た土器に名前が付けられました。九州を除く西日本一帯に分布する押型文土器です。」「八王子市越野(No.105遺跡)出土」とある。中から何かがあふれ出るような文様だ。どんな道具を使うとこのみごとな押型文ができるのか。
「深 鉢」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
146 たおやかな姿の二つの深鉢。まるで水を入れた袋のように胴がふくらみ上に広がる。唐突な激しさはどこにもない。誰がこんなにおっとりしたかたちを想い描いたのだろう。私は初めて見るけれども、右の図で上にひらいた不思議なかたちはよくあるものなのだろうか。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
147 大きな深鉢、曽利式土器。「長野県諏訪郡曽利遺跡から出た土器に名称が付けられました。中部地方、関東東部を中心に分布する土器です。」この名称が容器のどの部分をもとにしているのか知らないが、この密集したラインは山梨県考古博物館の巨大な深鉢と同じだ。カメラを上の方へあげて口辺部をのぞく。容器の口は内側へ傾斜した面がつくる輪になっている。側面のすべてのラインはその傾斜面まで入り込む。口辺部の実際に出土した部分は少ないようだ。胴の側面は縦に細かく刻む線の上に細い粘土紐がのせられて模様を見せる。くびれの上に開くラインの部分と下の胴の部分の対比がおもしろい。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
148 周囲で鍔のように張り出す浅い鉢。ぴんと張った糸で押さえられているが、ふつうに置いていつまでも立っていられるかたちではない。文様は鍔の上だけのようだ。これは記号に近いまでに簡略に形式化されている。張り出した鍔は少し前の飯釜を思い出させる。この時代に、もし奈良時代のようにかまどがあったら、これなど載せるのにぴったりなのだが。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
149 二つの深鉢。手前のものは角張った感じが強い。胴のくびれはそんなに強くないのだが円や菱形の背後に刻まれた縦線がこのくびれを強く見せる。向かって右手の鉢は文様が大変細かい。この模様とほとんど同じものを千葉の風土記の丘で見た。同じ早期でも器形はちがう。ここでも、いろいろに接続された平行線には意味ありげに小穴が並ぶ。擦り消したらしいところを拾ってみたりする。これはひどくあいまいだ。もともとあいまいなのか、復元の際に境目が消えたのかどちらかだが、たぶんはじめから適当に擦り消しを入れたのだろう。
「深 鉢」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
150 側面におもしろい文様の注口土器。口辺の両脇には取っ手を付けるためらしい穴がある。ただの穴ではなくてそれぞれにヘラ状のおおいがかぶさる。このヘラ状のものを付けた注口土器は前にもどこかで見たような気がする。容器は分割した面にはめ込んだような四角の文様で覆われる。中を通っている線は斜めに下りていって容器の反対側に行く。このために上下に配された四角形は様々なかたちになる。
「深 鉢」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
151 下から上に向かってきれいに開く土器。段を付けた二つの突起もそのラインの傾きで立つ。口辺はせまいはばで内側に折り込むようにかたむく。内面に段差ができて、器の厚みがいかにも薄いように見える。
「深 鉢」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
152 広くひらいた口辺はそのまま引き延ばされて鳥の頭のような突起が立つ。トカゲの頭にも似ているけれどもこのような姿勢は無理。この頭部であきらかにそれとわかるのは目とくちばしだ。彼らが日頃から見ていた鳥のうちどの鳥だろうか。頬やあごの下の肉垂れからすぐ連想するのはニワトリだがそれは当時にはあり得ない。ではヤマドリかキジか。もしかすると、どんな鳥でもないように、トカゲでもないように見せることが彼らにとって重要だったのかもしれない。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
153 これは誰が見ても人物を描いたように見える。しかし、明らかにふつうではない状態がいくつかある。両手の指が3本指。腕は反り返った1本の太い綱。腕と胴のつながりは全く考慮されていない。頭部は何重もの同心円。その上に後光のような飾りがのぞく。頭が上にとがっていたり、指の間に水かきでもあったら「カエル」といわれるだろう。縄文の人々は具体物をその通りに描くことをわざとさけているように見える。そのほかの側面を埋める区画文の中には時を経るままに思いつきを刻み込んでいったように様々なかたちが置かれる。が、多分そんな個人的な行為ではなくて、これは人々が一定の形式で何度も行った一つなのかもしれない。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 東京都埋蔵文化財センター ・ 東京都多摩市
154 「縄文早期末の土器」と表示されていくつかの土器が並ぶ。「底が尖っていることと粘土の中に植物の繊維を混ぜることがこの時期の特徴である。文様は口辺部のみに簡単につけられる。」文様として貼り付けられた紐はまさに縄である。図のほかに、ごく低い突起の下に縄状の文様で突起の代わりのように同じ三角形を表しているものもある。4箇所に置かれたこの小さい三角がその後の何千年も続く縄文突起の始まりなのだろうか。
「尖底土器」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
155 「天神山式土器 東海地方早期末の土器。厚さが2~4㎜と薄い。」と説明される。縄状文様はないが同心円状の弧が波模様のように配置されている。偶然に似たにすぎないものだろうけれども、このような波の模様は時間のかけ離れた歴史時代の日本の図柄でもある。少なくとも、このようなかたちとその配置に彼ら(の何人か)も関心を持ったということはいえるかもしれない。
「尖底土器」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
156 文様は、すでに縄文の張り出しと線の連続をはっきりと見せている。胴の表面から大きく離れ出たこの立体的造作は容器の制作段階のすべてにおいて大いに気を遣わせたにちがいない。それにもかかわらず線はあくまでなめらかにうねる。この大きな土器がこれほど丁寧に処理されていくにはどれほどの手間と時間を要するのか。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
157 作り手はきまりに従ってこの凹凸の表現に熱中する。とくに口辺のふくらみに注意して多くの手を入れている。それに較べて胴部はかなり大まかな処理だ。道具は先の平たいヘラと5本の指。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
158 すぐ目を引くのは容器の上の突起だ。出口のような穴が斜めを向いて小さく開く。このかたちは広い範囲で長く続けられるかたちだ。こういうイメージを彼らは何から借りてくるのだろうか。海岸ならば貝類だろうか。しかしここは海から遠く離れている。植物、たとえばキノコはどうだろう。容器のもう一つの特徴は胴に置かれた厚みのある文様だ。機械的なものではないおもしろさがある。すでに形式化と簡略化をくりかえしてきたようで、かたちの意味を推し量ることはできない。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
159 全面に隙間なく図柄をはめ込む。これには古代中国文化かアステカ文化の写真集に出てきそうな雰囲気がある。2つ並んだ穴や、角張ってはめ込まれた文様の一部がそんな感じを与えるのか、それとも、この図の角度で見るとほぼ左右対称になる固い姿のせいだろうか。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
160 盛 り上がった突起の中に口が埋もれる。それぞれの突起は、それ自体が一つの部屋のように空間を包み込む。複雑に入り組んだこの立体は、もし現在作るとしたら、いくつかに分けた雌型を利用して流し込みで作りたくなるだろう。ひも状の物体で構成されたこの立体は確かに縄文のかたちの延長線上にある。しかし、これはどう見ても日常生活の道具ではない。これは縄文時代にときどき生ずるひどく特殊な形式の一つだと思う。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 釈迦堂遺跡博物館 ・ 山梨県東八代郡一宮町
161 空間にあふれ出す立体。かたちが定まらないで今にも溶け出しそうな姿だ。石膏でたくさん追加しているが全体はみごとに復元されている。器の赤い肌はひどく粗い。これは粒子の粗い粘土が使われたか、ながい時間を経るうちに表面のわずかなやわらかい部分だけが失われたか。出土した部分によってほぼ原型を見せているのは四つの大きな突起のうちの一つだけだ。あとの三つは大部分を石膏によって追加している。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
162 華やかに縁を飾る浅鉢。こんなかたちを後の時代の材料で作り替えたら立派な盛り皿になる。たとえば白磁か青磁に。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
163 四つの突起は、口縁部に立つというよりも側面の張り出しが上に出たというふうだ。張り出しのラインの多くは例によって側面や口辺の文様から這い上がっている。どこもかもつながっている。だから、すべては部分ではなくて全体の一部なのだ。ラインの太い紐のわきに細い紐が沿う。その変化が容器の姿をおもしろくする。上からのぞくと中は二段にくびれて十分に広い。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
164 これは「火焔型土器」と表示される。この姿はなぜか固い。縄文のなめらかに流れるラインやその不思議な連続は目立たなくなっている。全体が意匠の展示場だ。何世代も重ねてかたちを伝えてきた人々が次々にこれらを加えてきたのだろうか。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
165 口辺で大きく広がっている土器。突起の姿はまるで生き物のように流れゆらめく立体。これなら、燃える炎の中に見える「ある瞬間のイメージ」といえるかもしれない。これはねんど紐を付けるのではなく、溝を掘ったり穴をうがったりして内部に掘り進むことによってできているように見える。そこで、回転する部分の中心では掘り残された壁が立ったり、うがたれた穴は中空部分まで進入したりする。凹部の空間に魅せられる立体。この土器の出土部分は容器の下部と四つの突起の一部だったらしい。図の正面の突起は、さいわいにもそのほとんどが出土したようだ。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
166 めずらしくほっそりとしたやさしい輪郭の土器。側面の細かい文様は同じ幅の二本線で描かれる。上に載せられた中空の立体はぎゅっとにぎったらつぶれそうに繊細な造りだ。ほっそりとした輪郭も細かい文様も繊細な立体もここまでひかえめに表される。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
167 両脇にあるのは取っ手か注ぎ口か。この大きさなら、両手に持って中の液体を回し飲みすることもできる。下でふくらんだ胴の文様は直角と巻いた円だ。少し固いが位置をずらした配置がおもしろい。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
168 こんな雰囲気の土器をどこかで見たように思う。右上から斜めに下りる模様は反対側にもあるようだ。意味のある記号が詰め込まれているようにも見えるがそんなことはないのだろうか。容器の上にも何かが載っている。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 津南町歴史民俗資料館 ・ 新潟県中魚沼郡津南町
169 眼前の土器は上から比較的明るく照らされて四方から間近に見ることができる。すぐ目を引くのは、やわらかな輪郭線と表面に流れる線刻だ。周囲をめぐりながらかたちを見ていくと、立体はうつりかわる起伏を見せてなめらかな肌につつまれている。これはほとんど官能的なかたちだ。その表面には線の模様がごく自然に配される。かたちにも文様にも機械的なものは少しもない。まるで何かの自然がそこに写し取られているようだ。
「環状注口土器」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
170 人面付き注口土器。この張り切った胴体はどうだ。なにかの海獣類が仰向けのまま顔をもたげた姿のようだ。この表面の張りを粘土であらわすのは簡単ではないはずだ。何かの道具で内側からも押し出したのだろうか。作り手には内部の充実した立体が必要であったようだ。
「人面付注口土器」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
171 並ぶ中ではやや小振りだ。特徴は口辺の「トンネルのある通路」と側面の粗い押型文。通路状の下には段差があって襞のようになる。通路のように見えるのはこのせいなのだ。突起の根本は襞につながる造りのようだが、その流れにはやや無理がある。それに、凹凸の刻まれた襞と胴の押型文が接しているのは煩雑でよくない。
「深 鉢」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
172 この土器の突起や口辺のかたちに見られる特徴は凹部の表現だ。溝のように掘り下げたり穴を押しあけたりする表現。紐を置いたり橋を架けたり筒を付けたりするのとはちがう。何ものかがひそかにとおりすぎる通路。抜け出る脇道もある。
「浅 鉢」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
173 これも凹部の表現。おもしろいことに四つの突起のかたちが少しずつちがう。その一つはほとんど復原時に補足されたものだ。すり鉢状の器にそれぞれ斜め上を指す突起が載る。このそろばん玉状の外形は縄文土器の一つのパターンになっている。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
174 こうして丈の高い突起が四本立っていると、上の何かを支えていたのかと思う。あるいは、周囲から内側を向いて中のものを見守る意味があるのか。
「浅 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
175 この土器は、出土した部分が限られているが大まかに白く補足されたかたちから繊細で優雅な姿を想像させる。口辺は円筒状の細めの胴から思い切り広くみごとに開く。胴の下の方は出土しなかったようだが真横から見ると、円筒はそのまま下に続くように見える。もう少し下に伸びて少しふくらんでから閉じる、というのはどうだろうか。上でひらいた口辺の端はほとんど失われている。たまたま運良く見つかった正面の一部から全体の様子がわかる。容器の上部は勢いよく広がって、さらになかなかしゃれた縁取りを見せていたのだ。この下(外側)にも細い紐を置いたような細かい模様がある。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
176 よく見るかたちだ。この時期に広く行われたかたちなのだろう。側面の文様には線と円がある。この線は円筒を縦に割ってその端を順に押しつけ並べたたものらしい。たいていの線はまっすぐ伸びていて勝手に曲がったりしない。小さい円の方は二本線の上でなんだか意味ありげに配置される。
「深 鉢」 ・ B.C.4000~B.C.3000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
177 これも展示用の輪っぱに支えられて床から浮いている。いちばん下の部分は白く補って平底にしてあるが、これだけの底面積で長く立っているはずはない。実際にはどのように置かれていたのか。何かがこの輪っぱの代わりをしていたのかもしれない。こんなのを乗せるための浅鉢とか、浅い砂の中とか。上の3分の2の立派な姿に較べたら、この貧弱な高台付近はことさら見せたい部分ではないだろう。ただ、そうだとするとこの部分はもっと簡略化されてもいいかもしれない。
「深 鉢」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
178 「押型文土器」と表示される。押型の繰り返された境目を見つけようとするが分からない。これは晩期の土器だが、早期によくあるかたちとそんなにかわらない。どこがちがうのだろうか。
「深 鉢」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
179 手前のはほとんどオレンジ色だ。突起は、口の上に両脇からさしかけるように出ていたと思われる部分が欠けている。どちらの土器も注ぎ口が上に乗っているので、本体の口はやや後方に押しやられる。器形はちがうが文様の付け方はよく似ている。どちらも液体を注ぎ分ける容器として十分に機能的なかたちだ。
「注口土器」 ・ B.C.2000~B.C.1000年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
180 こんなのもある。「壺」と表示されたこの土器は、球形の側面全体に短い線を刻む。まるで薄い毛皮をまとったように。これをぼくは初めて見るが、これも広く行われた形式の一つなのか。晩期の土器でさえ、こんなふうに様々な文様があるので、文様をあまりたくさん見ていない者には作り手があたかも自分の個性で文様を描いているかのように思われる。
「壺」 ・ B.C.1000~B.C.400年 ・ 朝日村奥三面歴史館 ・ 新潟県朝日村
181 正面から見るとかたちのよく整った深鉢。わずかに開いた口辺から下へ穏やかに下りた側面は、やがて徐々に閉じて丸底となる。ただし、底の部分は出土しなかったらしい。右側からのぞき込むと、下半分はややいびつで後ろの側面だけが狭まる。これだと、底はもっと尖っていたかもしれない。側面全体に縦の線が並び、途中に別のかたちがそれとなくはめ込まれる。それは何かを暗示して謎めいているが同じ幅の線でできているので目立ちすぎることはない。器の輪郭線や側面の文様が全体を落ち着いた姿に見せる。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
182 出土部分が少ない。下の方はそのまますぼまるのだろうか。ここでも同じ幅で並ぶ横線の中に何かのかたちがはめ込まれる。すでに抽象化された自分たちだけに分かる約束事のようなかたち。この表し方はある時期によくおこなわれた方法のようだ。いや、後の時期にも出てくるような気がする。縄文時代の底に流れる普遍的な表し方の一つなのかもしれない。イメージのひそやかな挿入。
「深 鉢」 ・ B.C.7000~B.C.4000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
183 品のよい浅鉢。補修されたところはあまりないように見える。口縁部と突起の一部が欠けているがそのままにしてある。上部は特徴のあるデザインで外から見ると3段に積まれた輪になっている。その内部は口縁ですぐ斜面を下り内側に落ち込む。細かい模様で統一された側面。思わず両手を出したくなるような流麗な輪郭線。一つだけの突起。
「浅 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
184 信州から持ち込まれたという土器。にぎやかに飾られて全体のかたちもよく整っている。これも、複雑にくだけた破片をたくみに接合しているが欠損部分はそのままにしている。それでも器のかたちを十分に見せている。一つの見せ方としておもしろい。これは、くだけるという過程を想像させる。それゆえ、くだける前のかつての完全な形を想像させる。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
185 大きな渦巻きの深鉢。ここまで完全な渦巻きはめずらしい。これは、よくあるように流れる途中で道草をするように巻いたり、模様の一部としてあちこちで巻いたりするのとはちがう。ここではこの何重もの渦巻きこそ文様の主役だ。球面に描かれた円はいっそうその立体を強調する。見る者たちはその魅力を共有する。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
186 有口鍔付土器。「長者ヶ原遺跡 縄文・中期 お酒などの発酵あるいは皮を張って太鼓として用いられたのではないかとされています。(樽?、太鼓?)」ぼくはこのデザインも初めて見る。二つの円弧が中心に巻き込まれる図形はよくあるが、ここではさらに立体的で、中心が周辺の面とともにゆるやかにせり出している。二本から四本束ねられた円弧は容器の側面で互いに大きく巻きあう。そのあいだにはなだらかな余白。粘土には粒状のものが含まれているようだが表面はなめらかに見える。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
187 大きな波模様に取り巻かれた深鉢。もっとも、本物の波は関係がなさそうだ。波の背側にはU字型の返しがあって少し飛び出している。この波のようなかたちはこのあいだの火炎土器にも描かれていた。口辺部の下によく見るかたちだ。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
188 扁形動物のような渦巻きのある深鉢。これは、土器の表面に付けた粘土ひもに細かい横線を並べて平らにした姿がこんなふうに見えるのだ。拡大した図では、渦巻きの両はしの様子がミミズの頭かしっぽのようでもある。中心の先はいつものように起きあがっている。この渦巻きはかなり適当な間隔で容器の側面に配置される。渦巻きと渦巻きのあいだを埋めているのは、細めの粘土ひもを折りたたんだものだ。この時代の文様表現では、巻くことと折りたたむことが絶えずおこなわれている。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
189 修理された部分がないか、あるとしてもほとんどわからない。変色したところもあるにはあるが目立たない。口辺の刻み目などはごく最近ヘラを入れたばかりのよう。この時代では初めて見るかたちだ。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
190 文様が器のかたちそのものになったような鉢。均衡のとれた器形。いきおいよくひらいた口辺をちょうどよいふくらみ方の胴が受けている。開ききるまぎわになった豪華な花。こんなデザインのガラス細工はどうだろうか。弓なりに反った口辺の下に太いV字型が配される。形を整えた先端は返しのついた槍の穂先か、あるいは枝先にふくらむ新芽か。彼らがそういうものを具体的にあらわすはずはないけれども、そのようなもののかたちが、具体物を離れたイメージとして彼らの脳内に記憶されていたかもしれない。この出土品は補修されているようだけれどもその境目が分からない。少なくとも、三つの突起部分とV字型の部分は出土しているようだ。
「深 鉢」 ・ B.C.3000~B.C.2000年 ・ 長者ヶ原考古館 ・ 新潟県糸魚川市
191 取っ手の造りが分からない。、別の木材をつけることができただろうか。椀の縁はかなりすり減っている。とくに取っ手の反対側の縁が外向きにすり減っている。穴が開いてしまったので、砂状の何かをすくい上げるのに使っていたのかもしれない。
「赤漆塗取手椀」・B.C.2000~B.C.1000年・桜町JOMONパーク出土品展示室・富山県小矢部市
192 器形の整った土器。側面の輪郭線にほとんどゆがみはない。胴には二種類の文様が三段の帯状に続く。その上下の余白部分は明確に区別される。口縁部に6箇所、二種類の低い突起が交互に出る。やや大きめの三つの突起の端は口縁部から流れ高まる。このころの数百年間に突起はどんな意味を持っていたのだろう。かつての空間構成の意識がまだ続いていたか、あるいは固定された形式だけが痕跡のように続けられたか。
「深 鉢」・B.C.1000~B.C.400年・桜町JOMONパーク出土品展示室・富山県小矢部市
193 縁の立った大きな浅鉢。これはたいへんすっきりとしたデザインの大皿だ。縁で一箇所だけ、小さな輪ができて周をわずかに引き広げる。そのほかに大げさな飾りはない。中をのぞき込むと、隙間だらけのたくさんの破片が見える。細かくくだけた部分が失われている。それに対して周囲は比較的よく残っている。
「深 鉢」・B.C.3000~B.C.2000年・桜町JOMONパーク出土品展示室・富山県小矢部市